山里を想う 🏠

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Essay 1

中央分水嶺・高島トレイル(愛発越え~乗鞍岳~黒河峠)
 
 佐々木 建雄

高島トレイルの出発点である愛発越え(あらちごえ)からスタートし、乗鞍岳、黒河峠を経てマキノの白谷温泉バス停までの約12㎞のトレッキングをした記録です。
同行メンバーはすべてアラ還の健脚熟女3名。それに後期高齢の私という、何とも不釣り合いなパーティーです。
晴天の秋の1日、マキノ駅前発8:46のバスで国境スキー場へ。スキー場のゲレンデを登るところから早や登山が始まります。



さて、登山道に入る前に愛発越えについて少し触れておきましょう。?古代にあっては、今の北陸三県は、広く越(高志=こし)と呼ばれ、畿内から独立して相当の勢力を維持していたようです。
この愛発越えのルートは、大陸文化が日本海に上陸し、琵琶湖~瀬田川~木津川という水運を利用すれば、最短距離で畿内に到達しうる道筋であることから、早くに開かれたのは想像に難くありません。
7世紀に、鈴鹿関や不破関と共に、この地に愛発関が設けられたのも当然な事であったでしょう。
鈴鹿関(伊勢)、不破関(美濃)、愛発関(越前)は、古代三関として特に重要視されていました。
その愛発関も公式には延歴8年(789年)に廃止され、今はどこにあったのかはっきりしていません。
義経と弁慶の一行がこの道を通った、という言い伝えもあります。また、承元元年(1207)、
親鸞が越後へ流された時もこの愛発越えを通っているようで、その時詠んだ歌から、大変な難路であったのが想像できます。
「越路なる あらちの山に行き疲れ 足も血潮に染めるばかりぞ 親鸞」
さて、この歌にある「あらちの山」は、現在の敦賀市南部~西近江路に沿う一帯の山を指し、昔は愛発山といったようです。
最高峰は乗鞍嶽(海抜865メートル)とか。「越前国名蹟考」には「曳田と山中との間、西の方の山なり」との記述もあるようで、愛発は有乳・荒血・荒道・荒茅・阿良知とも書かれ,「あらち」にあてられた文字や、とくに降雪期の通行のつらさを歌った歌から、愛発山塊を越える道の厳しさが読みとれます。
ということは、これから我々が歩こうとしている高島トレイルの、今日の行程がほぼ愛発山塊ということになり、通過点の一つである乗鞍岳がその主峰であったということです。
スキー場のゲレンデを登り始めて、これから向かう愛発の山塊を見上げると、出発を祝福するかのように真っ青な空が広がっていました。



ゲレンデは見た目以上に斜度があり、早くも息が上がり、背中が汗ばんできました。
スキー場を登り切り、いよいよ本格的な山道に入りますが、稜線への登りはさらにキツく、しばらくは喘ぎあえぎの道が続きます。
そんななかで、疲れた体と心を慰めてくれるのは森の仲間たち。



まずは、真っ赤な実がたわわに実ったナナカマド[バラ科]。実には微量のシアン化合物が含まれており、大量に食べると死ぬこともあるそうです。
ただ、朝夕の冷え込み厳しく、霜の降りる日が何日かあると毒素も抜けていくらしく、鳥もそれを知っているのか、あるいはいよいよ餌になるものがなくなって止む無くか、食べる姿は多く目撃されているとのこと。



そうこうしているうちにやっと尾根道に出たようで、登りの道と打って変わった平坦路へ。
その昔、過酷な愛発越えに苦労した先人達には申し訳ないような、快適な尾根道が続きます。
樹木は、雪と風の影響で矮小化した、落葉広葉樹が多く見られました。
特に目についたのがサワフタギ(タンナサワフタギ?)。
沢のない尾根道に、なぜこれほど多いのか?と不思議なくらい。
鮮やかな瑠璃色の実がとりわけきれいでした。

サワフタギ[ハイノキ科]


歩を進めて行くうちに、やがて辺りは一面ブナ林に変わります。



なかなかりっぱなブナです。



気持ちの良いブナ林が続きます。幹は優に一抱えはありそう。



山小屋とはとうてい思えない。
何かの調査、作業の拠点小屋として使ったのでしょうか?
その脇に乗鞍岳の標識が。先に述べた愛発山塊の、主峰と言われていた山です。
行程としては、今日の予定の半分弱といったところでしょうか。

愛発山塊の主峰・乗鞍岳のピークを踏んで程なく、視界が開けて雄大な景色が広がります。
一面ススキの原。森林限界でもないのに樹木が無いのはどうして?答えは多分、右前方の鉄塔。
送電線工事のため、樹木が伐られたのでしょう。
乗鞍岳の山頂にあった怪しげな小屋は、その基地だったのかも?



竹生島をこの方角、この高度から眺めるのは初めてです。
この絶景をおかずにすると、コンビニおにぎりの味も絶品になるから不思議。



さて、何度もアップダウンを繰り返しつつの行軍ですが、その何度目かのダウンの途中、草むらに奇妙なものを発見。



一見ソーセージがぶら下がっているようにみえるこの植物はツチアケビ(土木通)というラン科の寄生植物。
葉緑素を持たないので光合成ができず、他の植物の栄養をもらうという生き方をしています。
寄生の宿主はヒラタケで、こういう寄生の仕方をする植物を菌従属性栄養植物というそうです。
しかし、他へ寄生はしていても、漢方の世界ではドツウソウ(土通草)という名前で、高い値がつくとのこと。
薬効は強壮、利尿など。
ちなみに、下の画像はツチアケビの花です。



花期は6月頃。滋賀会の定例研修の折り、菅山寺の朱雀池の畔で観察したものです。
確かに、葉らしきものはなく、花だけがついています。

行程を進めて行くと、再びブナ林に出会いました。


この株は、どんな試練に立ち向かったのか、根が上がり、根と幹の境目から真横に枝が出るという、片足立ちのポーズをしています。
幹がこんなに傾いても持ちこたえている姿を見ていると、今夏のパラリンピックの選手とダブって見え、思わず頑張れ!

そして、こちらは台風に押し倒されたブナの大木。



根張りの大きさから幹周りも想像できようというもの。
山を歩くと、こんな痛ましい光景にいたるところで遭遇します。
何年も前から言われている、温暖化の影響による気象の凶暴化が原因になっていることは明らか。
CО2 の削減は待ったなしです。

そして、こちらの画像は…、送電線に載って作業中。



ボリショイサーカス顔負けの光景です。
サーカスではセーフティネットを張っていますが、こちらは命綱だけ。
下に広がる海は敦賀湾。
あの高さからだと当然、琵琶湖から鈴鹿の山々までも見渡せ、最高の眺めでしょう!
が、当人にその余裕があるのかどうか。
それを試すわけではないですが、誰からともなく「頑張って」、「ご苦労様」などの声援を贈ると、手を振って応えてくれたので、この超高所作業にも慣れているのでしょう。
こういう人たちのお陰で何不自由なく電気が使えているのだと思えば、何とも有難いことです。
この現場からしばらく歩いたら、やっと黒河峠到着。
そこに電力会社の車が何台か停めてありました。
恐らく、あの作業のために乗ってきた車でしょう。
ということは、作業用の資器材は、ここから人力で登りの山道を運ばれたということになります。
改めてご苦労様です。

黒河林道を下っていると、草むらにひっそりとリンドウの花が咲いて、疲れを癒してくれます。



黒河林道もかつては越前と近江を結ぶ流通の道で、黒河越えとも白谷越えとも呼ばれていたようです。



林道には以前は一般車も乗り入れ可でしたが、今は乗り入れ禁止のチェーンが張ってありました。
路面はきれいに整備され、快適に歩けるのは良いのですが、時間の読みを誤り、峠から白谷温泉まで40分程度と見込んでいたのが、実績は90分。
バス停に着いたのは発車5分前という綱渡りでした。
登山開始9:10、バス停着16:11で実に7時間1分の行程でした。
最後までおつき合いいただき、ありがとうございました。


荒神山古墳に想う(彦根市 荒神山 標高284m) 平田 明

荒神山は、彦根市の田園地帯に琵琶湖から1kmほど内陸にある独立峰である。中生代白亜紀の火山活動によりできた。
山麓を緩やかに広げた穏やか山容は、琵琶湖東岸に点在する低山の様子に同じくする。
4世紀ごろ、荒神山の頂上に全長123mの強大な古墳が築かれた。古墳時代前期終わりの前方後円墳である。数ある近江の古墳の実に2番目の大きさだ。
荒神山周辺には遺跡から、縄文弥生の時代より人々が小さな集落を形成し綿々と生活を営んできたことが知られている。そこに突如築かれた前方後円墳は、古くからの住人の生活とかけ離れた規模の建造物であったろう。
なぜ荒神山の頂上に大規模古墳が築造されたのか。
ところで畿内型と言われる前方後円墳は、大和政権の象徴とされている。
この古墳が近江の地に築造されたのは、巨大化した大和政権の勢力が近江に進出し、朝鮮半島との交流を目的に、日本海地域につなげる琵琶湖の湖上交通の掌握に力を注いだころであった。
『荒神山古墳』(彦根市教育委員会)では、前方後円墳の築造は、大和政権の政略の証と考えることができるとしている。



現在の荒神山は、アカマツ林の松食い虫被害跡地で植生回復した二次林とスギ・ヒノキ人工林、山内に点在する神社仏閣の周辺にはシイやモチノキなどの常緑広葉樹林、谷部は竹林といったこのあたりの標準的な植生である。
いにしえの荒神山は、縄文、弥生時代から生活に欠かせない物資の供給源として利用されていたであろう。
ところで、古墳時代の荒神山は、前方後円墳が築かれたことで、何を変えたのだろう。
前方後円墳に繋がる曽根沼には物資の集積場とそれを管理する諸施設があったという。(※「琵琶湖をめぐる古墳と古墳群」用田政晴)
古代の開発、グローバル化で山林はどのように変容し、地域住民との関わりはどう変化したのだろうか。


宇曽川河口より荒神山を望む。その昔、山頂に古墳があった。

※荒神山については、佐々木会長の時候のご挨拶・今月の一枚(2020年4月)に紹介されています。ご覧ください。見る >


ホハレ峠~日本地図から消えた村、徳山村「門入」を歩く 下川 茂

①はじめに
平成20年、岐阜県揖斐川最上流に日本最大の貯水量をもつ「徳山ダム」が完成し、早10年が経過しようとしている。ダム湖底には縄文時代から続く特有の山村文化や習俗が残る「徳山村」の大半の集落(7地区)が沈む。7地区より標高が高いため(約420m)に唯一水没を逃れた「門入」集落も村の中心部へと続く道路が湖底に沈んだため存続が不可能となり、昭和62年までに徳山村の全村民が集団移転を余儀なくされた。
この「門入」集落を訪ねるには、旧村民だけが利用可能な週1回運航する水資源機構の小型船を使う他は、R303号線沿いの揖斐川町「坂内川上」集落から、林道を約6㎞登った「ホハレ峠」(標高約820m)を越えて徒歩で入るしかない。
新緑の5月下旬、10年ぶりに門入に訪ねる友人をリーダーとして、我々4人のパーティーはホハレ峠のお地蔵さんを後に「門入」集落を目指して標高差約400mを下る。このユニークな「ホハレ峠」の名前は、土地の99.3%を森林が占める徳山村の主な生業のひとつが「トチ板挽き」であったことから、このトチ板(だいたい長さ195㎝×幅96㎝×厚さ3.6㎝で用途は床の間の板用)を隣接する坂内村川上へと運び出す際、あまりの重さに頬が腫れてしまうほど過酷な重労働だったことに由来する。
「トチ板運び」は、男で20貫目(約75㎏)、女で10貫目(約37.5㎏)近い重い荷を「トチ板ボッカ」が列を作って越した峠だと言われている。帰りには、米、塩、酒、乾物等を運んで戻るまさに峠が物産流通の要であった。



②ホハレ峠に車を置いて、黒谷沿いの道を歩き始めるとまず目にするのは、落葉広葉樹の「ブナ林」や「ブナとミズナラ混交林」である。



③少し下がると一面「トチノキ」で、トチノキは「トチ板」だけでなく村民の重要な食料として各自が自分のトチの実の採集権を有する「トチ山制度」が設けられていた。



④5月下旬のこの頃は、「トチの花」の花盛りであった。



⑤岐阜県下有数の豪雪地帯であるため陽当たりの悪い斜面には「雪渓」が残る。



⑥シカの食害痕(イタドリ)



⑦ダム湖へと流れる谷川は水量が豊富で、さらに黒谷本流を渡渉すると門入から続く林道へ出る。



⑧門入のランドマーク「沈下橋」



⑨現在の門入の様子。集団離村に伴い神社や小学校の分校、集落内の建物はすべて取り壊された。写真の建物は、旧住民の方が冬場を除く時期に滞在する際に建てられたもの。



⑩高台にある「八幡神社」跡には、「門入集落家並図」と集落の歴史が記された「碑」がある。※隣村である「戸入」集落には、木地師特有の名字の「小椋」姓があった。



⑪水資源機構の「避難小屋」と「炊事棟」(奥側)



⑫門入集落から徳山ダムの方へと下る。元来は徳山村の生活道路できちんと舗装がされている。昭和45年以降は、約14.1㎞離れた中心地の徳山本郷地区間を毎日「村営バス」が運行されていた。



⑬門入集落跡から数㎞進むと川幅が徐々に広くなり、ダム湖の末端部であることが見て取れる
※今回は、時間の関係でここまでは歩けなかったので、友人が10年前撮った写真を借りて紹介する。



⑭やがて道路はそのままダム湖へと沈んでいく。この先に「戸入」集落があった。
※10年前に撮られた写真データ借用。



⑮終わりに
徳山村は、離村前の昭和59年頃の戸数は500戸を数え、人口は1,586名であった。徳山村は揖斐川の最上流部にあり、北、南、西を1,200m級の山々に囲まれた「多雨多雪地帯で」冬期は文字通りに陸の孤島と化した。
主産業は豊かな山林を利用した林業で、そこに暮らす徳山村の人々の生活の特色は自然植物との関わりの深さが上げられるが、昭和に入ってからも山村特有の暮らしが色濃く継承されていたため、民俗学上も早くから注目されていた。
平穏な暮らしが一変したのは、昭和30年代に日本経済発展の一連の流れの中で、大規模ダムの計画が推し進められた中で持ち上がった「徳山ダム」建設計画が策定されたことによる。長年に渡り幾多の交渉の結果、平成20年に徳山ダムは完成したが、ひとつの行政区域である村全体が丸ごと消滅して地図から消えた事例は他には無いと思われる。
集団移転を余儀なくされた元住民たちのふるさとへの痛切な思いは、今も大西暢夫さんの「水になった村」(書籍・DVD)や昭和58年製作の映画「ふるさと」(加藤嘉主演)で窺い知ることができる。
自分自身にとり、徳山村は生まれ育った旧伊香郡との社会的・経済的なつながりが深く、今回の「ホハレ峠から門入」訪問を終えて、初めて旧徳山村との目に見えぬ繋がり(ご縁)があることを実感した次第である。これを契機とし、山村文化や民俗に関心を持つ一人の森林インストラクターとしても、現存する文献資料や民具、今も残る食文化(栃餅づくり・・)等を手がかりに「地図から消えた村」の在りし日の姿や今日的意味について調べて行ければと思っている。

☆彡門入集落跡<赤○印> 下流はダム湖へと向かう。

☆彡今回歩いたGPSルート図 青○印がホハレ峠のお地蔵さんの位置を表す