山里を想う 🏠

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Essay 1

見えてきた 瀬田丘陵とため池とのつながり
 
 森上 記子

ご縁があって、京都から瀬田に移り住み、30年あまりが過ぎようとしています。
最初の家は、旧東海道の「一里塚跡」近くでした。
当時は京滋バイパスの開通で、瀬田界隈がますます賑やかになってきた頃でした。
家の近くに整骨院があり、そこに通うちに、お爺ちゃん先生から、地域にまつわるお話を聞くことができました。


「昔、この一里塚のあたりでは、夜に宴会が終わって一杯機嫌で歩いていると、キツネに土産の折り箱を取られたそうや。」
そして、現在の瀬田駅に近い国道1号線あたりは、桑畑や梨畑だったそうで、なんだか、「ごんぎつね」や「雪わたり」のお話の世界のようでした。
「東消防署のところは、ため池やったんや。わしは、小学校の帰りに、よう泳いだもんや。」
確かに、東消防署の周りの地形は、土手のような感じを今も残しています。
ここも、ため池だったのです。しかも、泳いでいたなんて!!
名前は、「茶屋窪池」と判明しました。


引っ越してきて、ため池をよく見かけるなあと思っていたのです。
JR瀬田駅に隣接している駐輪場の入り口にも、「本願明池」跡の石碑が建てられています。
駐輪場や消防署へと変えられていった「ため池」。
道路がため池の上を通っているところ、あるいは、ため池が埋められて、宅地になったところもあります。

なぜ、瀬田にはこんなにため池があったのでしょうか。
ため池がたくさんある地域と言えば、瀬戸内地方というのがこれまでの自分の中での印象でした。
瀬田の地域も、雨がそう降らない地域なのかなあ・・・と思ってきました。

ため池と言えば、毎日のように歩きに行く「瀬田公園」内にあるため池のそばにお地蔵さまがまつられてあります。
そこの立て札には、以下のことが記されています。

「この下長尾池(通称:地蔵池)から、二体の地蔵が掘り出された。
口伝えによれば、江戸時代の日照りが続く年に、この地蔵さんのとところに村人が集まり、「タンタンタメロ。」と繰り返し唱えて、雨乞いをした。
今でも、地元の大萱では、八月二十三日に、水利委員が感謝祭りと豊年祈願をしている。
<南大萱町財産区 大津市>」



現在、お地蔵さまは、一体なのですが、地域の方たちが摘んだ野草やお仏花を供えられ、私も通ると必ず手を合わせ、心のよりどころにさせていただいています。

実は、水をめぐっては、昔の人々がお地蔵さまにお願いをしてきたでだけではありませんでした。
他の地域でも類似したお話を聞きますが、水を我が田んぼに引き入れたいという思いから起こした行動は、想像を絶するものでした。
上流の方に、「水取り喧嘩場」(分水場)という場所が残っています。

郷土資料集には、以下のように説明されていました。
「各池の水の確保のために、農繁期の干天時は、双方水の取り合いで、お互いに水路を深くしたり、水路へ身体を横にして水をせきとめ、我田引水したりしたと言われています。
また、逆に、大雨のときは、池が危険になるため、土嚢(どのう)を積んで水を相手側に流したことから、喧嘩場と言われました。
(「昔を今、語りつぐ わがまち瀬田東」より)」



現在:分水口がコンクリートでできている。

このような過去の事実を知ると、お地蔵さまへの「タンタンタメロ」の唱え方も、自分がイメージしたリズミカルなものからは、かけ離れていたもののように思えてなりません。
どうして、ここまで水のことでご苦労されてきたのか・・・。
それは、降水量ではなく、瀬田の地形にあったことを知ったのは、つい最近のことです。
地域の南の方角には、「瀬田丘陵」があります。
この丘陵地帯から、水の恵みがあるはずですが、この水の恵みが、瀬田地域に十分にもたらされなかったのです。
以下は、先ほど引用しました「わがまち瀬田東」に掲載されている、元京都大学教授の足利健亮先生による特別寄稿からの抜粋です。

「概説書などには、ため池は降水量の少ない所に多く作られたというふうに、気候の面から記述されていることがありますが、これは誤りです。
そのような捉え方では、香川県の讃岐平野にため池が多く、対岸の岡山平野に少ない理由すら説明できません。
ため池分布の多い少ないは、主として地形によって規定されてきたのです。
瀬田丘陵の北側にため池密集地帯が形成されたのは、丘陵の奥が田上盆地で切られてしまい、集水面積が狭くて十分な水が流れ出してこなかったからに、ほかなりません。
田上盆地やそれに面する斜面にため池が少ない事実がその証拠になります。
・・・信楽方面から比較的豊かな水を集めてきた大戸川が貫流することによって、その水に依存してきたという条件も大きかったと解釈できます。」


ため池は、瀬田地域に40ないし50も密集していたそうです。
それが、地形からきたものだと知り、瀬田丘陵への関心がぐっと高まりました。

さらに瀬田丘陵の延長上に暮らしてきて、ようやく、なるほど・・・ということに行き当たりました。
地域は、道路のアップダウンが多いのです。
今の自宅から瀬田駅に行くまでに、坂を下って、また上ります。
どこかへ行こうとすると、アップダウンを経験しなければなりません。
初めに紹介した「一里塚跡」は旧東海道を上ったところにあり、一里塚跡を越えると下りになり、また、月ノ輪池に向かって上りになり、草津の宿へと向かっていきます。
このアップダウンが多い地形が、どうやら、瀬田丘陵から生み出された段丘とつながりがあるように思われてきました。
この段丘面を利用して、高台に、「近江国庁」がつくられ、国庁跡が残っています。


<1:50000 地形図「京都東南部」明治42 年測図(部分×1.5)>

土地分類基本調査(土地履歴調査)説明書 (平成26年3月国土交通省 国土政策局 国土情報課)には、上図の地図の解説がされています

「瀬田・栗東丘陵では現在の東海道新幹線の付近を境に、南側には丘陵地が、北側の瀬田から草津付近にかけては段丘と開析谷が発達する。
南側の丘陵地は概ね森林だが、北側の段丘面は畑や桑畑に、谷底平野は田に利用され、地形を生かした土地利用が展開されている。
また、開析谷の谷頭部には、灌漑用のため池が多数存在する。
さらに、段丘を縫うように旧東海道が通じ、段丘面には街村が発達する。」


いつも歩いている旧東海道は、段丘を縫うように通っているという表現が、まさにその通りだと、今になって実感を得ました。
旧道歩きは今もブームが続いており、旗を持たれた方を先頭に、石山や草津方面に向かって行かれます。
このあたりの変化に富んだ道歩きで、暑いときには、さぞお疲れのことではと思います。
この、アップダウンは、瀬田の唐橋を過ぎて高橋川を渡るあたりから、狼川を渡るまで続いている感じです。

さて、冒頭に出てきました、おじいちゃん先生のお話で、このあたりが「梨畑」だったということについてですが、これに関しては、龍谷大学准教授の横田岳人先生が、昨年11月、県立美術館で「梨畑とため池 瀬田丘陵の魅力をさぐる」と題して講演され、興味深いお話が聞けました。
梨作りは、瀬田地域と隣接する草津市の「笠山」(左図の写真も笠山)から始まったようです。
果物といいますと、扇状地が適しているように思われますが、このあたりも、「水はけのよさ」という利点もあって、始められたそうです。


昔、梨は日持ちがよくなかたそうで、近場で消費される果実だったそうです。
時代が移り、桑畑が化学繊維などの生産によって、減っていったのと同様に、梨畑の方も、青梨の品種も開発され、遠くからでも梨が入ってくるようになり、梨作りをされていた方も、都市部に出て行かれるなど、違う仕事に従事する方向に変わっていったそうです。
現在、滋賀で梨と言えば、「彦根梨」というブランドがあるそうですが、「「笠山」は、「滋賀の果樹栽培の発祥の地」のひとつとして知られており、明治45年に、岐阜県から移住された方が、荒れ果てた丘陵地を開墾し、滋賀県の果樹園経営の基礎を作られた」と、「南笠東学区 公式サイト」の「笠山の果樹栽培」のページに記されてありました。

「荒れ果てた丘陵地」の記述に関して、江戸時代末期に森林の過剰利用により、国内はハゲ山だらけであったと森林関連の書物に書かれています。
瀬田丘陵に近い田上山は、藤原京や東大寺の造営などによる度重なる伐採で、その惨状が写真に残されています。瀬田丘陵はそこまではいかないにしろ、今の山の様子を見ている私たちには、想像しがたいものだったようです。

こうした事実を知る以前、丘陵地の下方で「水取り喧嘩場」を探していたときに、こんな立て札が目にとまり、写真に撮っておきました。
土砂流出防備保安林」と記されてあり、えっ!と思いました。
かつて、荒れていた瀬田丘陵から、土砂が流れ出していたのです。
そして、川は、天井川化していたことも、横田先生のお話で知りました。


先ほどの瀬田地域の地図に、ため池がたくさんありましたが、中に3つ連なっているのがあります。この3段になったため池は、土砂の流出と関係があったということです。
最上段の「砂どめ池」がまさしくそれに当たるそうです。土砂の流出をとめて、更に、「空池」でもとめて、最後に水を貯えてそうです。
現在は、都市化のために田畑が減ったことで、「空池」は、「瀬田公園グランド」に姿を変えています。


地域の方よりお話を聞いてから、30年ほどがたち、ようやく、ため池が多かったわけを知りました。それにまつわるお話をもっと、聞いておけばよかったと思いました。
瀬田地域には、ため池にとどまらず、丘陵地の植生や昆虫などの生き物、古代の道、近江国庁跡・製鉄遺跡・須恵器の窯跡など、気になるものがいっぱいで、ワクワク感が止まりません。

現在の瀬田丘陵(商業施設より望む)

中央分水嶺・高島トレイル(愛発越え~乗鞍岳~黒河峠)
 
 佐々木 建雄

高島トレイルの出発点である愛発越え(あらちごえ)からスタートし、乗鞍岳、黒河峠を経てマキノの白谷温泉バス停までの約12㎞のトレッキングをした記録です。
同行メンバーはすべてアラ還の健脚熟女3名。それに後期高齢の私という、何とも不釣り合いなパーティーです。
晴天の秋の1日、マキノ駅前発8:46のバスで国境スキー場へ。スキー場のゲレンデを登るところから早や登山が始まります。



さて、登山道に入る前に愛発越えについて少し触れておきましょう。?古代にあっては、今の北陸三県は、広く越(高志=こし)と呼ばれ、畿内から独立して相当の勢力を維持していたようです。
この愛発越えのルートは、大陸文化が日本海に上陸し、琵琶湖~瀬田川~木津川という水運を利用すれば、最短距離で畿内に到達しうる道筋であることから、早くに開かれたのは想像に難くありません。
7世紀に、鈴鹿関や不破関と共に、この地に愛発関が設けられたのも当然な事であったでしょう。
鈴鹿関(伊勢)、不破関(美濃)、愛発関(越前)は、古代三関として特に重要視されていました。
その愛発関も公式には延歴8年(789年)に廃止され、今はどこにあったのかはっきりしていません。
義経と弁慶の一行がこの道を通った、という言い伝えもあります。また、承元元年(1207)、
親鸞が越後へ流された時もこの愛発越えを通っているようで、その時詠んだ歌から、大変な難路であったのが想像できます。
「越路なる あらちの山に行き疲れ 足も血潮に染めるばかりぞ 親鸞」
さて、この歌にある「あらちの山」は、現在の敦賀市南部~西近江路に沿う一帯の山を指し、昔は愛発山といったようです。
最高峰は乗鞍嶽(海抜865メートル)とか。「越前国名蹟考」には「曳田と山中との間、西の方の山なり」との記述もあるようで、愛発は有乳・荒血・荒道・荒茅・阿良知とも書かれ,「あらち」にあてられた文字や、とくに降雪期の通行のつらさを歌った歌から、愛発山塊を越える道の厳しさが読みとれます。
ということは、これから我々が歩こうとしている高島トレイルの、今日の行程がほぼ愛発山塊ということになり、通過点の一つである乗鞍岳がその主峰であったということです。
スキー場のゲレンデを登り始めて、これから向かう愛発の山塊を見上げると、出発を祝福するかのように真っ青な空が広がっていました。



ゲレンデは見た目以上に斜度があり、早くも息が上がり、背中が汗ばんできました。
スキー場を登り切り、いよいよ本格的な山道に入りますが、稜線への登りはさらにキツく、しばらくは喘ぎあえぎの道が続きます。
そんななかで、疲れた体と心を慰めてくれるのは森の仲間たち。



まずは、真っ赤な実がたわわに実ったナナカマド[バラ科]。実には微量のシアン化合物が含まれており、大量に食べると死ぬこともあるそうです。
ただ、朝夕の冷え込み厳しく、霜の降りる日が何日かあると毒素も抜けていくらしく、鳥もそれを知っているのか、あるいはいよいよ餌になるものがなくなって止む無くか、食べる姿は多く目撃されているとのこと。



そうこうしているうちにやっと尾根道に出たようで、登りの道と打って変わった平坦路へ。
その昔、過酷な愛発越えに苦労した先人達には申し訳ないような、快適な尾根道が続きます。
樹木は、雪と風の影響で矮小化した、落葉広葉樹が多く見られました。
特に目についたのがサワフタギ(タンナサワフタギ?)。
沢のない尾根道に、なぜこれほど多いのか?と不思議なくらい。
鮮やかな瑠璃色の実がとりわけきれいでした。

サワフタギ[ハイノキ科]


歩を進めて行くうちに、やがて辺りは一面ブナ林に変わります。



なかなかりっぱなブナです。



気持ちの良いブナ林が続きます。幹は優に一抱えはありそう。



山小屋とはとうてい思えない。
何かの調査、作業の拠点小屋として使ったのでしょうか?
その脇に乗鞍岳の標識が。先に述べた愛発山塊の、主峰と言われていた山です。
行程としては、今日の予定の半分弱といったところでしょうか。

愛発山塊の主峰・乗鞍岳のピークを踏んで程なく、視界が開けて雄大な景色が広がります。
一面ススキの原。森林限界でもないのに樹木が無いのはどうして?答えは多分、右前方の鉄塔。
送電線工事のため、樹木が伐られたのでしょう。
乗鞍岳の山頂にあった怪しげな小屋は、その基地だったのかも?



竹生島をこの方角、この高度から眺めるのは初めてです。
この絶景をおかずにすると、コンビニおにぎりの味も絶品になるから不思議。



さて、何度もアップダウンを繰り返しつつの行軍ですが、その何度目かのダウンの途中、草むらに奇妙なものを発見。



一見ソーセージがぶら下がっているようにみえるこの植物はツチアケビ(土木通)というラン科の寄生植物。
葉緑素を持たないので光合成ができず、他の植物の栄養をもらうという生き方をしています。
寄生の宿主はヒラタケで、こういう寄生の仕方をする植物を菌従属性栄養植物というそうです。
しかし、他へ寄生はしていても、漢方の世界ではドツウソウ(土通草)という名前で、高い値がつくとのこと。
薬効は強壮、利尿など。
ちなみに、下の画像はツチアケビの花です。



花期は6月頃。滋賀会の定例研修の折り、菅山寺の朱雀池の畔で観察したものです。
確かに、葉らしきものはなく、花だけがついています。

行程を進めて行くと、再びブナ林に出会いました。


この株は、どんな試練に立ち向かったのか、根が上がり、根と幹の境目から真横に枝が出るという、片足立ちのポーズをしています。
幹がこんなに傾いても持ちこたえている姿を見ていると、今夏のパラリンピックの選手とダブって見え、思わず頑張れ!

そして、こちらは台風に押し倒されたブナの大木。



根張りの大きさから幹周りも想像できようというもの。
山を歩くと、こんな痛ましい光景にいたるところで遭遇します。
何年も前から言われている、温暖化の影響による気象の凶暴化が原因になっていることは明らか。
CО2 の削減は待ったなしです。

そして、こちらの画像は…、送電線に載って作業中。



ボリショイサーカス顔負けの光景です。
サーカスではセーフティネットを張っていますが、こちらは命綱だけ。
下に広がる海は敦賀湾。
あの高さからだと当然、琵琶湖から鈴鹿の山々までも見渡せ、最高の眺めでしょう!
が、当人にその余裕があるのかどうか。
それを試すわけではないですが、誰からともなく「頑張って」、「ご苦労様」などの声援を贈ると、手を振って応えてくれたので、この超高所作業にも慣れているのでしょう。
こういう人たちのお陰で何不自由なく電気が使えているのだと思えば、何とも有難いことです。
この現場からしばらく歩いたら、やっと黒河峠到着。
そこに電力会社の車が何台か停めてありました。
恐らく、あの作業のために乗ってきた車でしょう。
ということは、作業用の資器材は、ここから人力で登りの山道を運ばれたということになります。
改めてご苦労様です。

黒河林道を下っていると、草むらにひっそりとリンドウの花が咲いて、疲れを癒してくれます。



黒河林道もかつては越前と近江を結ぶ流通の道で、黒河越えとも白谷越えとも呼ばれていたようです。



林道には以前は一般車も乗り入れ可でしたが、今は乗り入れ禁止のチェーンが張ってありました。
路面はきれいに整備され、快適に歩けるのは良いのですが、時間の読みを誤り、峠から白谷温泉まで40分程度と見込んでいたのが、実績は90分。
バス停に着いたのは発車5分前という綱渡りでした。
登山開始9:10、バス停着16:11で実に7時間1分の行程でした。
最後までおつき合いいただき、ありがとうございました。


荒神山古墳に想う(彦根市 荒神山 標高284m) 平田 明

荒神山は、彦根市の田園地帯に琵琶湖から1kmほど内陸にある独立峰である。中生代白亜紀の火山活動によりできた。
山麓を緩やかに広げた穏やか山容は、琵琶湖東岸に点在する低山の様子に同じくする。
4世紀ごろ、荒神山の頂上に全長123mの強大な古墳が築かれた。古墳時代前期終わりの前方後円墳である。数ある近江の古墳の実に2番目の大きさだ。
荒神山周辺には遺跡から、縄文弥生の時代より人々が小さな集落を形成し綿々と生活を営んできたことが知られている。そこに突如築かれた前方後円墳は、古くからの住人の生活とかけ離れた規模の建造物であったろう。
なぜ荒神山の頂上に大規模古墳が築造されたのか。
ところで畿内型と言われる前方後円墳は、大和政権の象徴とされている。
この古墳が近江の地に築造されたのは、巨大化した大和政権の勢力が近江に進出し、朝鮮半島との交流を目的に、日本海地域につなげる琵琶湖の湖上交通の掌握に力を注いだころであった。
『荒神山古墳』(彦根市教育委員会)では、前方後円墳の築造は、大和政権の政略の証と考えることができるとしている。



現在の荒神山は、アカマツ林の松食い虫被害跡地で植生回復した二次林とスギ・ヒノキ人工林、山内に点在する神社仏閣の周辺にはシイやモチノキなどの常緑広葉樹林、谷部は竹林といったこのあたりの標準的な植生である。
いにしえの荒神山は、縄文、弥生時代から生活に欠かせない物資の供給源として利用されていたであろう。
ところで、古墳時代の荒神山は、前方後円墳が築かれたことで、何を変えたのだろう。
前方後円墳に繋がる曽根沼には物資の集積場とそれを管理する諸施設があったという。(※「琵琶湖をめぐる古墳と古墳群」用田政晴)
古代の開発、グローバル化で山林はどのように変容し、地域住民との関わりはどう変化したのだろうか。


宇曽川河口より荒神山を望む。その昔、山頂に古墳があった。

※荒神山については、佐々木会長の時候のご挨拶・今月の一枚(2020年4月)に紹介されています。ご覧ください。見る >


ホハレ峠~日本地図から消えた村、徳山村「門入」を歩く 下川 茂

①はじめに
平成20年、岐阜県揖斐川最上流に日本最大の貯水量をもつ「徳山ダム」が完成し、早10年が経過しようとしている。ダム湖底には縄文時代から続く特有の山村文化や習俗が残る「徳山村」の大半の集落(7地区)が沈む。7地区より標高が高いため(約420m)に唯一水没を逃れた「門入」集落も村の中心部へと続く道路が湖底に沈んだため存続が不可能となり、昭和62年までに徳山村の全村民が集団移転を余儀なくされた。
この「門入」集落を訪ねるには、旧村民だけが利用可能な週1回運航する水資源機構の小型船を使う他は、R303号線沿いの揖斐川町「坂内川上」集落から、林道を約6㎞登った「ホハレ峠」(標高約820m)を越えて徒歩で入るしかない。
新緑の5月下旬、10年ぶりに門入に訪ねる友人をリーダーとして、我々4人のパーティーはホハレ峠のお地蔵さんを後に「門入」集落を目指して標高差約400mを下る。このユニークな「ホハレ峠」の名前は、土地の99.3%を森林が占める徳山村の主な生業のひとつが「トチ板挽き」であったことから、このトチ板(だいたい長さ195㎝×幅96㎝×厚さ3.6㎝で用途は床の間の板用)を隣接する坂内村川上へと運び出す際、あまりの重さに頬が腫れてしまうほど過酷な重労働だったことに由来する。
「トチ板運び」は、男で20貫目(約75㎏)、女で10貫目(約37.5㎏)近い重い荷を「トチ板ボッカ」が列を作って越した峠だと言われている。帰りには、米、塩、酒、乾物等を運んで戻るまさに峠が物産流通の要であった。



②ホハレ峠に車を置いて、黒谷沿いの道を歩き始めるとまず目にするのは、落葉広葉樹の「ブナ林」や「ブナとミズナラ混交林」である。



③少し下がると一面「トチノキ」で、トチノキは「トチ板」だけでなく村民の重要な食料として各自が自分のトチの実の採集権を有する「トチ山制度」が設けられていた。



④5月下旬のこの頃は、「トチの花」の花盛りであった。



⑤岐阜県下有数の豪雪地帯であるため陽当たりの悪い斜面には「雪渓」が残る。



⑥シカの食害痕(イタドリ)



⑦ダム湖へと流れる谷川は水量が豊富で、さらに黒谷本流を渡渉すると門入から続く林道へ出る。



⑧門入のランドマーク「沈下橋」



⑨現在の門入の様子。集団離村に伴い神社や小学校の分校、集落内の建物はすべて取り壊された。写真の建物は、旧住民の方が冬場を除く時期に滞在する際に建てられたもの。



⑩高台にある「八幡神社」跡には、「門入集落家並図」と集落の歴史が記された「碑」がある。※隣村である「戸入」集落には、木地師特有の名字の「小椋」姓があった。



⑪水資源機構の「避難小屋」と「炊事棟」(奥側)



⑫門入集落から徳山ダムの方へと下る。元来は徳山村の生活道路できちんと舗装がされている。昭和45年以降は、約14.1㎞離れた中心地の徳山本郷地区間を毎日「村営バス」が運行されていた。



⑬門入集落跡から数㎞進むと川幅が徐々に広くなり、ダム湖の末端部であることが見て取れる
※今回は、時間の関係でここまでは歩けなかったので、友人が10年前撮った写真を借りて紹介する。



⑭やがて道路はそのままダム湖へと沈んでいく。この先に「戸入」集落があった。
※10年前に撮られた写真データ借用。



⑮終わりに
徳山村は、離村前の昭和59年頃の戸数は500戸を数え、人口は1,586名であった。徳山村は揖斐川の最上流部にあり、北、南、西を1,200m級の山々に囲まれた「多雨多雪地帯で」冬期は文字通りに陸の孤島と化した。
主産業は豊かな山林を利用した林業で、そこに暮らす徳山村の人々の生活の特色は自然植物との関わりの深さが上げられるが、昭和に入ってからも山村特有の暮らしが色濃く継承されていたため、民俗学上も早くから注目されていた。
平穏な暮らしが一変したのは、昭和30年代に日本経済発展の一連の流れの中で、大規模ダムの計画が推し進められた中で持ち上がった「徳山ダム」建設計画が策定されたことによる。長年に渡り幾多の交渉の結果、平成20年に徳山ダムは完成したが、ひとつの行政区域である村全体が丸ごと消滅して地図から消えた事例は他には無いと思われる。
集団移転を余儀なくされた元住民たちのふるさとへの痛切な思いは、今も大西暢夫さんの「水になった村」(書籍・DVD)や昭和58年製作の映画「ふるさと」(加藤嘉主演)で窺い知ることができる。
自分自身にとり、徳山村は生まれ育った旧伊香郡との社会的・経済的なつながりが深く、今回の「ホハレ峠から門入」訪問を終えて、初めて旧徳山村との目に見えぬ繋がり(ご縁)があることを実感した次第である。これを契機とし、山村文化や民俗に関心を持つ一人の森林インストラクターとしても、現存する文献資料や民具、今も残る食文化(栃餅づくり・・)等を手がかりに「地図から消えた村」の在りし日の姿や今日的意味について調べて行ければと思っている。

☆彡門入集落跡<赤○印> 下流はダム湖へと向かう。

☆彡今回歩いたGPSルート図 青○印がホハレ峠のお地蔵さんの位置を表す