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Essay 1

ホハレ峠~日本地図から消えた村、徳山村「門入」を歩く。

①はじめに
平成20年、岐阜県揖斐川最上流に日本最大の貯水量をもつ「徳山ダム」が完成し、早10年が経過しようとしている。ダム湖底には縄文時代から続く特有の山村文化や習俗が残る「徳山村」の大半の集落(7地区)が沈む。7地区より標高が高いため(約420m)に唯一水没を逃れた「門入」集落も村の中心部へと続く道路が湖底に沈んだため存続が不可能となり、昭和62年までに徳山村の全村民が集団移転を余儀なくされた。
この「門入」集落を訪ねるには、旧村民だけが利用可能な週1回運航する水資源機構の小型船を使う他は、R303号線沿いの揖斐川町「坂内川上」集落から、林道を約6㎞登った「ホハレ峠」(標高約820m)を越えて徒歩で入るしかない。
新緑の5月下旬、10年ぶりに門入に訪ねる友人をリーダーとして、我々4人のパーティーはホハレ峠のお地蔵さんを後に「門入」集落を目指して標高差約400mを下る。このユニークな「ホハレ峠」の名前は、土地の99.3%を森林が占める徳山村の主な生業のひとつが「トチ板挽き」であったことから、このトチ板(だいたい長さ195㎝×幅96㎝×厚さ3.6㎝で用途は床の間の板用)を隣接する坂内村川上へと運び出す際、あまりの重さに頬が腫れてしまうほど過酷な重労働だったことに由来する。
「トチ板運び」は、男で20貫目(約75㎏)、女で10貫目(約37.5㎏)近い重い荷を「トチ板ボッカ」が列を作って越した峠だと言われている。帰りには、米、塩、酒、乾物等を運んで戻るまさに峠が物産流通の要であった。



②ホハレ峠に車を置いて、黒谷沿いの道を歩き始めるとまず目にするのは、落葉広葉樹の「ブナ林」や「ブナとミズナラ混交林」である。



③少し下がると一面「トチノキ」で、トチノキは「トチ板」だけでなく村民の重要な食料として各自が自分のトチの実の採集権を有する「トチ山制度」が設けられていた。



④5月下旬のこの頃は、「トチの花」の花盛りであった。



⑤岐阜県下有数の豪雪地帯であるため陽当たりの悪い斜面には「雪渓」が残る。



⑥シカの食害痕(イタドリ)



⑦ダム湖へと流れる谷川は水量が豊富で、さらに黒谷本流を渡渉すると門入から続く林道へ出る。



⑧門入のランドマーク「沈下橋」



⑨現在の門入の様子。集団離村に伴い神社や小学校の分校、集落内の建物はすべて取り壊された。写真の建物は、旧住民の方が冬場を除く時期に滞在する際に建てられたもの。



⑩高台にある「八幡神社」跡には、「門入集落家並図」と集落の歴史が記された「碑」がある。※隣村である「戸入」集落には、木地師特有の名字の「小椋」姓があった。



⑪水資源機構の「避難小屋」と「炊事棟」(奥側)



⑫門入集落から徳山ダムの方へと下る。元来は徳山村の生活道路できちんと舗装がされている。昭和45年以降は、約14.1㎞離れた中心地の徳山本郷地区間を毎日「村営バス」が運行されていた。



⑬門入集落跡から数㎞進むと川幅が徐々に広くなり、ダム湖の末端部であることが見て取れる
※今回は、時間の関係でここまでは歩けなかったので、友人が10年前撮った写真を借りて紹介する。



⑭やがて道路はそのままダム湖へと沈んでいく。この先に「戸入」集落があった。
※10年前に撮られた写真データ借用。



⑮終わりに
徳山村は、離村前の昭和59年頃の戸数は500戸を数え、人口は1,586名であった。徳山村は揖斐川の最上流部にあり、北、南、西を1,200m級の山々に囲まれた「多雨多雪地帯で」冬期は文字通りに陸の孤島と化した。
主産業は豊かな山林を利用した林業で、そこに暮らす徳山村の人々の生活の特色は自然植物との関わりの深さが上げられるが、昭和に入ってからも山村特有の暮らしが色濃く継承されていたため、民俗学上も早くから注目されていた。
平穏な暮らしが一変したのは、昭和30年代に日本経済発展の一連の流れの中で、大規模ダムの計画が推し進められた中で持ち上がった「徳山ダム」建設計画が策定されたことによる。長年に渡り幾多の交渉の結果、平成20年に徳山ダムは完成したが、ひとつの行政区域である村全体が丸ごと消滅して地図から消えた事例は他には無いと思われる。
集団移転を余儀なくされた元住民たちのふるさとへの痛切な思いは、今も大西暢夫さんの「水になった村」(書籍・DVD)や昭和58年製作の映画「ふるさと」(加藤嘉主演)で窺い知ることができる。
自分自身にとり、徳山村は生まれ育った旧伊香郡との社会的・経済的なつながりが深く、今回の「ホハレ峠から門入」訪問を終えて、初めて旧徳山村との目に見えぬ繋がり(ご縁)があることを実感した次第である。これを契機とし、山村文化や民俗に関心を持つ一人の森林インストラクターとしても、現存する文献資料や民具、今も残る食文化(栃餅づくり・・)等を手がかりに「地図から消えた村」の在りし日の姿や今日的意味について調べて行ければと思っている。

☆彡門入集落跡<赤○印> 下流はダム湖へと向かう。

☆彡今回歩いたGPSルート図 青○印がホハレ峠のお地蔵さんの位置を表す